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三重県


くわなじょう

蟠龍櫓(外観復元)と七里の渡し

本多忠勝像
桑名城 (三重県桑名市吉之丸)
天守:なし
戦国期の主な歴史
1513年 北伊勢の土豪・伊藤武左衛門が桑名三城のひとつ・東城を築く。
1574年 織田信長による侵攻。織田家臣・滝川一益の支配地になる。
豊臣時代 織田信孝、一柳可遊など、城主が目まぐるしく入れ替わる。
1601年 本多忠勝が10万石で入封。近世城郭の築城が始まる。
1617年 本多忠政(忠勝の長男)が姫路に移封。松平定勝が入城。

(メモ)
 かつては、4重6階の天守、51基の櫓、46基の多聞が立ち並ぶ水城だった。現在、建物は失われ、堀と石垣を残した九華公園として整備され蟠龍櫓が外観復元されている。公園近くの浄土寺には、本多忠勝の墓もある。
 関ヶ原の戦い後、戦乱から文治の世へ変わっていく中で武断派の筆頭といえた本多忠勝は、中央から遠ざけられたというが、桑名は「七里の渡し」を擁する東海道の要所であり、そこを任されたと考えれば、家康の信頼は晩年になってからも変わらなかったといえる。
 江戸時代後期の絵師・歌川広重が東海道五十三次で描いた桑名宿は七里の渡しから見た蟠龍櫓の構図となっている。
 桑名と言ったら、やっぱり「その手は桑名の焼き蛤(はまぐり)」でしょ!
神戸櫓跡 辰巳櫓跡 本多忠勝の墓(浄土寺)



いがうえのじょう


伊賀文化産業城(模擬天守)
伊賀上野城 (三重県伊賀市上野丸の内)
天守:模擬天守  日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
室町時代 守護大名・仁木氏の館があったとされる。
1570年代 仁木氏、織田信長の後ろ盾を得るも伊賀惣国一揆により追放される。
1578年 第一次天正伊賀の乱。織田信雄、伊賀衆に撃退される。
1581年 第二次天正伊賀の乱。信雄、父・信長の助力を得て伊賀衆を撃退する。
1584年 脇坂安治が伊賀に入封。
1585年 安治、摂津に転封。筒井定次が入封。本格的な築城が始まる。
1608年 筒井定次が改易。藤堂高虎が入城し、改修が進む。
1615年 大阪夏の陣ののち、藤堂氏の本城が津城に移り、支城となる。
(メモ)
 筒井定次、藤堂高虎時代の石垣が残っており、特に高虎の高石垣は、上から覗くと足がすくむほどスゴい。また、城跡近くには藤堂家が造った藩校・崇廣堂が現存している。
 戦国時代的には藤堂高虎。江戸時代的には松尾芭蕉と歴史的に熱い街だが、やっぱり一番の売りは忍者。イベント時には忍者に扮した人々であふれかえる。
高石垣 筒井氏時代の石垣 藩校・崇廣堂

伊賀文化産業城(模擬天守)

<見れた展示物>

藤堂高虎所持 黒漆塗唐冠形兜 
 トンボの羽のような脇立てが特徴的な兜。藤堂高虎豊臣秀吉より拝領した。のち藤堂一族の藤堂良重に与えられ、大坂の陣で着用されたといわれている。



きたばたけしやかた


 北畠氏館跡(北畠神社境内)

 北畠神社鳥居
北畠氏館 (三重県津市美杉町上多気)
天守:なし 続日本100名城(多気北畠氏城館跡のうち)
戦国期を中心とした主な歴史
1336年 南北朝時代。南朝方・北畠顕信が伊勢国司となる。
1338年 顕信、東国へ下向。北畠顕能(顕信弟)が伊勢国司となる。
1342年頃 顕能、北朝方の攻勢を受け、多気の地に退去し城館、霧山城を築く。
     以後、数代にわたり北畠氏が伊勢国司として居館とする。
1569年 織田信長の伊勢侵攻。
    北畠家8代当主・北畠具教、本拠を大河内城に移す。
    北畠家一門・北畠政成が霧山城代となる。
    大河内城の戦い。
    具教、嫡男・具房の養子に信長二男・信雄を迎え信長と和睦する。
1576年 三瀬の変。具教、信長と信雄の命を受けた北畠旧臣に殺害される。
    織田の大軍が送られ城、城館とも焼き払われる。城代・政成は自害。
(メモ)
 240年にわたり伊勢国司・北畠氏の本拠地であった。標高560m、比高240mの山頂に霧山城、麓に北畠氏館があり、詰城は比高80mの所にあった。
 霧山城までは登山ルートとなっており、それなりの装備が必要。
 室町時代後期の管領・細川高国の作庭とされる国指定の名勝・北畠氏館跡庭園がある。
 北畠氏は「太平記」では北畠親房、顕家の活躍により注目される一族だが、戦国時代を扱ったドラマではいつの間にか織田信長に滅ばされており無視されがち。

北畠氏館跡庭園(国指定名勝) 詰城縄張り図 曲輪A



つじょう(あのつじょう)

  
模擬三重櫓

本丸跡にたつ藤堂高虎像
津城(安濃津城) 三重県津市丸之内 
天守:なし  続日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1558年 この辺りで勢力を誇った長野氏が伊勢国司・北畠具教に降伏。
永禄年間(1558~1570) 長野氏の一族・細野氏が小規模な城を築城。
1568年 織田信長が伊勢に侵攻。
1569年 北畠具教、信長と和睦(事実上降伏)。
    信長の弟・信包が城主となり、城を整備。
1594年 信包、丹波国に移封。
1595年 富田一白が5万石で入城。
1600年 関ヶ原の戦い。一白の子・信高、東軍として戦い2万石を加増される。
1608年 信高、伊予宇和島に移封。伊予今治より藤堂高虎が22万石で入城。
1615年 高虎、大坂夏の陣の戦功で5万石を加増され27万石になる。
1617年 高虎、さらに5万石を加増され32万石となる。
     以後、明治維新まで藤堂氏の居城となる。
(メモ)
 築城の名手といわれる藤堂高虎によって築かれた城だが、泰平の世になってから築かれたせいか、豊臣家に備えるために築いたという伊賀上野城のような高石垣はない。
 三重櫓が建てられているが、史実と異なる模擬三重櫓である。
 江戸時代、城下はお伊勢参りに行く人が立ち寄る宿場町として栄え、その繁栄ぶりは「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」と謳われた。
 津市に行ったのならば、ソウルフード「津ぎょうざ」を堪能すべし。

丑寅三重櫓跡の石垣 戌亥三重櫓跡の石垣と内堀 移築された藩校・有造館の入徳門



まつさかじょう


天守台
松坂城 (三重県松阪市殿町)
天守:なし  日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1584年 羽柴秀吉の命により蒲生氏郷が伊勢・松ケ島城に入る。
1588年 蒲生氏郷、松ケ島城は発展が望めないとして、松坂城の築城を始める。
1590年 蒲生氏郷が会津に転封。服部(小平太)一忠が入城する。
1595年 一忠、秀次事件に連座して切腹。古田重勝が入城する。
1619年 古田家が移封。紀州徳川家の藩領となり、以後、城代が置かれる。
(メモ)
 建造物は残っていないが、名将・蒲生氏郷が手掛けただけはあると思わせる石垣が多く残っている。場所によっては柵がないと危ないと思われる高い石垣も多数ある。
 「松坂」は「まつざか」と読みがちだが、正しい読みは「まつさか」である。よって、あの美味しい牛肉も「まつざかうし(ぎゅう)」ではなく、「まつさかうし」である。
本丸跡 虎口① 虎口②
高石垣 三の丸跡に建つ御城番屋敷(重要文化財)